STANCE
スタンス
合理の先にあるもの
近代以降、合理は正しさの基準となった。
「我思う、ゆえに我あり」とうたわれて以降、
考え、分け、説明できるものだけが、確かなものとされた。
それによって、多くのものが整えられてきた。
効率も、制度も、社会の仕組みも。
今では、AIやクラウドによって、
作業だけでなく、思考すら代替されつつある。
そうしたものは、取り入れればいい。
効率化できるものは、効率化すればいい。
しかし、人の営みはそれだけでは収まらない。
日本にはもともと、
説明のつかないものをそのまま受け入れる感覚があった。
祈りや願い、
人と人との関係、
場に流れる空気や時間。
そうしたものは、合理では測れない。
淡路島に橋がかかり、行き来は容易になった。
それは明らかに合理的であり、便利さをもたらした。
だが一方で、船で渡る時間にあったものは、失われた。
酒を酌み交わし、語らい、ゆっくりと向かうあの時間。
そこにあった価値は、
効率では測れないものである。
人のことを理解すること、
関係性を築くこと。
そこには、時間がかかる。
だが、その時間こそが、関係の質をつくる。
合理か、そうでないか。
その対立を越えていく。
人を枠に合わせるのではなく、
人が活きるように、全体を整える。
私たちは、その両方を引き受ける。
合理の先にあるものに、
目を向け続ける。
それが、私たちの在り方である。